渡部さとる 写真展

IN and OUT

2019年1月4日(金) -26日(土)

作家略歴


ゼラチンシルバープリント


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 「IN and OUT 」

右があれば左もある。

晴れている日もあれば、雨が降っている日もある。

うまういくこともあれば、途方にくれることもある。

出会う人もいれば、別れる人もいる。

外に出たい日もあれば、家でじっとしていたい日もある。


何かが撮りたくて撮るんじゃなくて、

撮るために何かを探すことだってある。


何かを伝えるためじゃなく、

自分でもよくわからないけど撮ったもの。

何かを写したものじゃなくて、何かが写っているもの。

役割を持たされた写真じゃなくて、写真が写真である写真。

そんな写真を撮ってみたい。


渡部 さとる

 

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「はじまりも、終わりもない 時間の輪の中へ」ー2019年1月 渡部さとる 「IN and OUT」ー

文:北桂樹

ギャラリー冬青 2019年最初の展示は渡部さとるさんの写真展「IN and OUT」からはじまる。 今回の展示は3つの壁面にいくつかのシリーズから抜粋されたカラー写真によって構成された展 示となっている。そのなかでも最新のシリーズとなる《In and OUT》について書きたいと考え る。

渡部さんはギャラリー冬青において、実に今回で10回目の個展となる。筆者は2015年の《 prana》の写真の印刷立会いにお邪魔させていたたいたところからはじまり、その後、2016年 《demain》2017年《demain 2017》、2018年《2Bとマンデリンーそして僕はこの町を離れ るー》と続く流れを見させてもらってきた。 今回の展示の新作部分《In and OUT》は《demain》以降の作品の流れを組んだ「時間」を取り 扱う作品であると考える。

《prana》以前の渡部さんの作品はジェフ・ウォールが自身の論文『「取るに足らないものの 印」コンセプチュアル・アートにおける/としての写真の諸相』1995 でいうところの「対象= 物体(渡部さんの作品の場合は物体としての「場所」)」 を構成する写真の純粋性を用いて、 日本人の集団的記憶を喚起させ、ノスタルジックな世界観を創りだすというルポタージュを延 長させた先に芸術性を創造するものであった。

その本質はロラン・バルトが使った 『それは=かつて=あった』ロラン・バルト「明るい部屋」1985, p94 ということに基づく厳然たるリアルである。写真の純粋性は「リアルであること」つまり映し 出されたイメージ、そのモチーフが「かつて・あった」リアルな存在であるということであ り、ジェフ・ウォールがいうところの「対象=物体」であることだ。これが写真のモダニズム のである。これは何が写っているのか?ということそのものが作品における主題であり、作品 のもっとも重要なファクターとされていることを意味している。

2017年《demain 2017》の作品展と同時に出版された同名の写真集『demain』(冬青社 2017 )はその写真集の造り(造形)とともに素晴らしい展示であった。ただ、当時の筆者としては 写真集の造り以上にはこの作品群の何を素晴らしいとするのかを分析する言葉を持ち得てはい なかった。 とにかく「何か」に強く惹かれると思ったのだった。

2018年《2Bとマンデリンーそして僕はこの町を離れるー》の展示を観た時にその「何か」に気 がつくことになった。 それは写真の表象を創るテクニックやテクノロジーの違い、もしくは何が写っているのかとい う眼差しの先ではなく、作品として扱う主題が「場所」から「時間」へと移行していることに よる芸術性の移行であった。

《prana》までの作品の中で「ノスタルジーという時間への感覚」を取り扱ってきた渡部さんは 作品のアップデートの繰り返しの中、写真のもつ「時間の概念」を素材とし「はじまりも、終 わりもない」循環する時間の世界観、「時間の輪」を作品として創り出すことへと到達してい た。 それは、極端な言い方をすれば、何が写っているのか、つまり「対象=物体」ということから 明らかに離脱しているのだ。作品として扱うものが「場所」から「時間」になったということ が何を示すのかは《demain》において明確に現れる。《demain》では フランス の文化人類学 者・クロード・レヴィ=ストロースが著書 『野生の思考』(1962年)で用いた「ブリコーラ ジュ」という考え方を作品に取り入れることにより「はじまりも、終わりもない」世界観を構 築している。ここに、モダニズム的な考え方から、ポスト・モダニズム的への芸術的な思考の シフトが見られる。

今回の展示に関しての取材の中、ご自身の新聞社でのかつての仕事と比較する形で 「作品づくりとしては、役に立たない写真を撮ろうと思っている」 と渡部さんと話されたが、これは決して自虐的な意味を持った表現ではない。「芸術表現」が 何であるかを捉えた渡部さんなりの芸術観を示した言葉であり、芸術が何であるのかを捉え、 自覚的な思考のシフトを行っていない人からは出てこない言葉だ。 《2Bとマンデリンーそして僕はこの町を離れるー》の展示時には渡部さんとつながりの強い江 古田の持つ場所性に再び表に戻ってしまうのではないかと思われたが、この展示も見事に 「(事情により江古田を離れるという)終わりのある現実」とは違う 「はじまりも、終わりも ない」芸術的な作品の世界観を創り出していた。 事情を知らない初見の人にとってはまさに時間の輪の中に閉じ込められた感覚を覚えるであろ う展示となっていた。

今回の 《In and OUT》は電車の車窓からのイメージによって構成されている。 生まれ育った土地である米沢を撮りに行くという話だけは事前にうかがっていたこともあり、 今回はどんな作品になるのだろうかと思っていた筆者としては、またやられたと感じる芸術的 な世界観の構築であった。 「生まれ育った土地である米沢を撮りに行く」ということを「場所の持つ過去という時間性を 撮りに行く」という考え方から見事にシフトさせた作品だと考える。 《In and OUT》は「今の生活のある東京(現在)」「生まれ育った土地である米沢(過去)」 という二つの時間性を持つ場所を繋ぐ現在でも過去でもない「いま・ここから」というベクト ルを撮ったのだ。

運動性を持った車窓からの眺めは「過去」か「現在」かのどちらかの場所へ向かっている(も しくは離れていっている)が、それはイメージからは容易には判断できないし、それ自体にそ れほどの意味を持つものではない。「時間のもつ運動性のベクトル」を線路の上を走る電車、 もしくはそれに乗る自分自身をメタファーとして表現している。 当然に渡部さんご自身の「過去」と「現在」の行き来を表してはいると思われるが、写真とい うメディアの持つ目の前の今、現在を過去としてイメージに残す特性そのものを時間を行き来 する様として 《In and OUT》(出たり、入ったり)として 表現しているとも考えられる。

渡部さんの一連の過去の作品も含めた主題として扱われる「場所(空間)」と「時間」という 概念はドイツの現代哲学者カントは経験的認識に先立つ先天的、自明的な認識や概念である 「アプリオリ」としている。つまり、解明せずに大前提として置いておくという考え方だ。 渡部さんは西洋的な考え方では横にいったん置いておくこの二つの概念に対して東洋的に、特 に日本人的な感覚を持って積極的にアプローチをし、作品の中でそれを素材として扱い、世界 観を構築する。 今回も、イメージとして表現された「時間の輪」の中で迷う心地よさを感じられる展示であ る。

ver.2018.12.27


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