「標準温度」

伊藤 昌世
Masayo Ito

2013年8月発行
2,500円+税
上製本/写真32点
サイズ  259x259x12mm

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「お嬢さん、“無常迅速”という言葉を知っているかね。」
表参道の同潤会アパートの一室での会話だった。「よく存じません。」と応えると、半世紀の間そこに、そして今は独り暮している、こともなげに扉を開けて私を迎え入れた82歳になる老人は、言葉の意味を静かに丁寧に語り聞かせてくれるのだった。素朴な交感を妨げるいかなる要因もそこにはなく、そのひと言ひと言に耳を傾けながら、老人の過ごしてきた時代と残された時間に思いを巡らせ、私は言いようのない気持ちに襲われていた。
果物を肴に湯で割った焼酎を夜毎一杯ずつ飲むのが習慣なのだと、少し楽しそうに切り分けたグレープフルーツをつまみながら話す、そのグラスが空になるころ仏壇のある隣室で写真を写させてもらう…だが、その写真には何かが足りなかった。
数度目の訪問の帰途、玄関を暇(いとま)してアパートの階段を降りていると、中年夫妻と成人した子息・息女という四人の家族連れとすれ違う。はっとして訊ねてみると老人の親族とのことだった。祈った不意打ちに慄きながら再び老人の元へと戻ると…そこには時間が、写真が満ちていた。

 

 

 

(著者あとがきより一部抜粋)

   


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